昨日はヨメの大台に乗る誕生日。。でもまあここまで元気に過ごせているんだからありがとうだね。本当に色々と感謝しなければいけない。今夜は有希子や孫娘のひなたも来てくれて焼肉の百福でお祝い。
平成3年と言えば1991年に成るのか。その年の春に三重に引っ越して来た。その1年少し前に大阪の小さな家を売りに出して、あちこち新しい家を探した。でもその頃はバブル絶頂期を過ぎた頃。とにかく大阪圏内へ通える所はどこも5000万は下らない。敷地も狭いのに。名張でさえそうだった。北は京都、滋賀、奈良も探したよ。そして友達に聞いた津に来てみたら値段は半額近い。今の団地はその頃からバイパスを通す計画が決まっていてすでにその土手も作られていた。大阪の家が売れたら、の条件ですぐに今の土地を契約した。なぜ仕事もやめて引っ越しまで考えたのは、ヨメの手術。まだ雄一が乳首を吸っている頃だった。有希子は小学生。天王寺の阪大での手術入院。こんな事に成るぐらいなんだから宝くじでも買おう、と天王寺の地下で買った覚えが有る。多くの親戚の人達も来てくれた。田舎のじいちゃん、ばあちゃんも来てくれた。病室でヨメの背中をさするお婆ちゃんの姿は忘れないなあ。家族の一大事だった。雄一は大阪のお婆ちゃんの家に預かってもらったが、小さな子供にも普通じゃない、というのが解るんだろうね。トイレやウンチもしなく成って病院にかかった様な記憶が有る。
仕事を終えて車で雄一達を連れて病院へ行く。天王寺の地下を雄一を抱っこして有希子を連れて病院へ行く。そんな地下を歩く風景が頭に残っているよ。そんな家族の一大事も無事に退院も出来たが、先は解らない。僕自身もキツイ仕事で稼げてもいつまでも続けられないと思っていた。血尿が止まらず仕事中もトイレに何度も駆け込む。夜に病院に駆け込むと、入院しなあかん、と言われるが休む訳には行かない。きつい薬を飲んだら翌朝には元気に成った。そんな事も有って、仕事も辞めて環境も良い所で再出発しよう、と思ったのが1990年頃に成るのか。
あれから32年が過ぎた。ヨメは三重大にも紹介状を書いてもらって暫くは通院したが、それはそれ程長い時間では無かった様に思う。幸いに本当にしぶとく元気で過ごしてくれている。お互いワンコが好きだし、引っ越し当日の夜、荷物を業者に積み込ませた後にハスキーの子犬を連れて名阪を走り津に来たんだよ。それが1991年の春。有希子は神戸小学校へ。雄一は幼稚園へ入った。ハスキーのナナは本当に可愛かった。
美味しい大きなケーキ。ありがとう! |
団地の公園の桜も咲いて来たよ。 |
孫娘のひなたは外大の2年生に成る。ひなたがバイトするケーキ屋さんでお祝いのケーキも用意してくれた。家に帰ってユウ達にもみんな一緒にあげたよ。これからも健康で元気に過ごせる様に。いつもありがとう。